ワールシュタットの戦い

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1241年、ポーランドのリーグニッツ郊外でモンゴル軍がドイツ・ポーランド連合軍を撃破した戦い。                             ポーランドに侵入したバトゥの率いるモンゴル帝国軍が、1241年にポーランド・ドイツ連合軍と衝突した最大の決戦。ワールシュタットはポーランド西部のシロンスク(ドイツ名シュレジエン)地方のリーグニッツ(レグニツァ)草原にあり、この戦いはリーグニッツの戦いとも言う。連合軍を指揮したシュレジエン候ハインリヒ2世は戦死、その敗北はドイツをはじめヨーロッパに衝撃を与えた。ワールシュタットとは”死の地”の意味。                               

疑問

(引用)世界史上よく知られたこの会戦も、実は本当にあったかどうか、定かではない。同時代文献にはまったく見えず、15世紀の文献で突然に大きく語られるからである。少なくとも、ポーランド諸公も、また当時はせいぜい200から300程度の動員力しかなかったといわれるドイツ騎士団も、この「会戦」を境に、大きくその顔触れが変わるなどということはない。客観情勢は、この「会戦」がたとえあったとしても、ささやかなものであったことを示している。<杉山正明『モンゴル帝国の興亡』上 講談社現代新書 p.84>