大日本帝国陸軍

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大日本帝国陸軍(だいにっぽんていこくりくぐん、だいにほんていこくりくぐん、旧字体:大日本帝󠄁國陸軍)は、1871年(明治4年) - 1945年(昭和20年)まで日本に存在していた軍隊組織である。通称は日本陸軍、帝国陸軍、陸軍。

解体後は、陸上自衛隊との区別などのため旧日本陸軍、旧帝国陸軍、旧陸軍という名称も使用される。

名称 大日本帝国陸軍の名称は、国外からの呼称もしくは対外的な連絡文書、公文書等の一部に明治10年代から用いられた。例として、1918年(大正7年)に当時の陸軍大臣大島健一(寺内内閣)がイギリス国王ジョージ5世に充てた祝電「英国皇帝陛下ヘ陸軍大臣ヨリ祝電(大正七年一月二十五日午後一時三十分発電)」では、日本陸軍・帝国陸軍・大日本帝国陸軍の各名称が使用されている[1]。

英称はImperial Japanese Army、Japanese Imperial Army、Japanese Armyなど。このうち「大日本帝国陸軍(日本帝国陸軍)」に相当するImperial Japanese Armyの名称・呼称は、1913年(大正2年)にイギリス陸軍省(現:国防省陸軍部)がウィリアム・カニンガム・グリーン駐日イギリス大使経由で外務大臣牧野伸顕(第1次山本内閣)に充てた、日本の新型騎銃である四四式騎銃1挺の寄贈を依頼する英文などで使用されている[2]。

概要 大日本帝国憲法制定前はその位置づけが未だ充分ではない点もあったが、憲法制定後は軍事大権については憲法上内閣から独立し、直接天皇の統帥権に属するものとされた。したがって、陸海軍(日本軍)の最高指揮官は大元帥たる天皇ただ一人であり、帝国陸軍については陸軍大臣(大臣)・参謀総長(総長)・教育総監(総監)が天皇を除く最高位にあり(直隷)、これらは陸軍三長官と呼称された。なお、三長官には陸軍大将ないし陸軍中将が任命されるため、役職自体は帝国陸軍の最高位といえど階級自体は必ずしも最高位の者が就任するものではなく、特に歴代の陸軍大臣と教育総監には少なくない陸軍中将が補職されている。


明治期の大元帥たる 明治天皇


大正期の大元帥たる 大正天皇


昭和期の大元帥たる 昭和天皇

この三長官の補佐機関として、「省部」や「中央」とも呼称される陸軍省・参謀本部・教育総監部の3つの官衙(役所)が設けられており、陸軍大臣(陸軍省)が軍政・人事を、参謀総長(参謀本部)が軍令・作戦・動員を、教育総監(教育総監部)が教育をそれぞれ掌っていた。また、三機関の序列第2位の次席相当職として陸軍次官(次官、陸軍省)・参謀次長(次長、参謀本部)・教育総監部本部長(本部長、教育総監部)がある。

1938年(昭和13年)12月、航空戦力の拡張・独立および統率柔軟化のため陸軍航空総監部が新設。航空総監(総監)を長とし、主に航空関連学校など陸空軍の教育を掌った[注 1]。第二次大戦最末期には航空関連学校(一部補充学校を除く)ともども軍隊化され、航空総監部は廃止、航空総軍に改編された。

参謀本部は戦時・事変時に陸海軍の最高統帥機関(諸外国軍における最高司令部に相当)として設置される大本営において大本営陸軍部となり、大元帥の名において発する大陸命を作成する存在であるが、これをもって参謀総長がいわゆる陸軍最高指揮官(陸軍最高司令官・陸軍総司令官に相当)となるわけではない。なお、教育総監(教育総監部)は帝国陸軍の教育を掌握する建前であるが、憲兵・経理・衛生・法務や機甲・航空、参謀・諜報といった特定職務に関係する学校等は、それぞれ陸軍省・参謀本部・航空総監部やその外局の管轄である。