大東文化大学

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大東文化大学(だいとうぶんかだいがく、英語: Daito Bunka University)は、東京都板橋区高島平1丁目9番1号に本部を置く日本の私立大学である。

1949年に設置された。大学の略称は大東(だいとう)、大東大(だいとうだい)。


建学の精神[編集]

漢学(特に儒教)を中心として東洋の文化を教授・研究することを通じて、その振興を図ると共に儒教に基づく道義の確立を期し、更に東洋の文化を基盤として西洋の文化を摂取吸収し、

東西文化を融合して「新しい文化の創造」を目指す、と定められている。1985年(昭和60年)に制定された。

そして、2008年(平成20年)9月には、創立百周年に向けた基本計画「中期経営計画(CROSSING2023)」を策定。この中で、これからの21世紀における時代のあるべき姿を提言し、

建学の精神を「多文化共生を目指す新しい価値の不断の創造」と現代的に読み替え、掲げている。

教育の理念[編集]

大東文化大学は、建学の精神に基づき、東洋の文化を中心として広く全世界の文化に関する諸学を研究・教授し、その振興を図ると共に、

東洋固有の文化を尊重し、その伝統的な美徳を身につけて豊かな人格の形成に努め、併せて国際的な視野を持ち、世界の文化の進展と人類の幸福の実現に寄与できる有為な人材を育成することを目指す。

大学全体[編集]

大東文化大学は、大正期における日本の政治・経済・社会・文化の近代化の過程で見られた西洋偏重の傾向を是正し、漢学を中心とする東洋文化の振興を図ろうとする木下成太郎による「漢学振興運動」を発端として、

1923年(大正12年)の帝国議会衆議院本会議において可決した「漢学振興ニ関スル建議案」に基づき設立された大東文化学院にはじまる。なお、議会の建議案決議で創設された経緯から、特定の創設者は存在しない。

現在、9学部21学科を設置している。

 沿革 [編集]

大東文化大学の誕生と九段校舎時代

大正期に起こった「漢学振興運動」による東洋文化の振興を図ろうとする機運と、東洋学術研究の振興に努めることを建言した木下成太郎を中心とするメンバーの尽力により、

1921年(大正10年)3月18日、第44回帝国議会衆議院本会議において「漢学振興ニ関スル建議案」が次のように提出された。

漢学ハ古来我ガ邦ノ文化ニ貢献シ国民思想ノ涵養ニ資益セシ所大ナルモノアリ而シテ今後亦之ニ待ツ所少シトセス之カ振興ノ途ヲ講スルハ刻下ノ急務ナリトス依テ政府ハ之ニ関シ適当ノ方法ヲ施サレムコトヲ望ム 右建議ス --漢学振興ニ関スル建議案

その後、第45回、46回帝国議会衆議院本会議において、それぞれ第三次建議案まで提出され、繰り返し審議されることとなる。

この建議案の理由書には、「西洋文明ノ伝来スルヤ人々之ニ走ルニ急ニシテ漢学ハ疎ムセラレ其ノ神髄ヲ覗フコト漸ク難キニ至ラムトス」といった内容が記されているが、これは日本社会が西欧に倣った資本主義経済国家になる中で、

様々な思想運動が大きく展開され、その一つとして漢学軽視の風潮に対する危惧を警鐘する意味があった。

再三に渡って行われた審議の結果、可決され1923年(大正12年)2月11日に「大東文化協会」が創設される。同年9月20日、法人格を財団法人へ改組し、大東文化協会の規約第一条の二「本邦現時ノ情勢ニ鑑ミ儒教ノ振興ヲ図リ及東洋文化ヲ中心トスル大東文化ヲ設立維持スルコト」

とされた趣旨に基づき[2]、大東文化学院(旧制専門学校)は文部省から設置認可を受けたが、関東大震災で東京府東京市神田区錦町三丁目十番地の校舎予定地(旧東京工科学校の一部を借り受けした地)が火災により全焼。同9月15日、開校予定地は、

東京市麹町区富士見町六丁目十六番地(現在の東京都千代田区富士見)にある、法政大学旧校舎(九段校舎)に変更され(開校予定日は変更無く同10月1日)、始業式は1924年(大正13年)1月11日、開校式は同1月28日、開院式が行われたのは同2月11日のことであった。

結局、この九段校舎は1941年(昭和16年)まで法政大学から借用することになった。初代総長は平沼騏一郎、初代会頭は大木遠吉、初代副会頭は小川平吉、江木千之。

大木遠吉は、文部大臣より認可が下されるまで、開設準備として「学院綱領並学則編制委員会」を設けて自らその委員長となり、東京帝国大学、京都帝国大学、早稲田大学を中心とした私学グループの三者に意見を求めて慎重な学則の制定に当たった。

教授陣には、第二代総長となる井上哲次郎が哲学を担当したことをはじめ、法学の鵜澤總明、山岡萬之助、漢学の松平康國、牧野謙次郎、内田周平のほか、哲学者北昤吉も論理・心理学を講じている。また、平沼淑郎(平沼騏一郎の実兄)も開設時から大東文化学院の経済学教授として教鞭をとった。

大東文化学院は、本科3年課程と高等科3年課程からなり、全学生が国庫補助によって授業料が免除されることに加え、本科生には25〜35円、高等科生には50〜80円が支給され、教科書も支給されたことや、「大東文化学院学則第一章総則第一條」によれば、皇道及び国体に醇化した儒教、東洋文化について教育を行うことを第一の目的に謳っていることから、当時の私立専門学校の中ではやや特殊な性格を持った高等教育機関であった。

九段校舎は、青桐という落葉高木によって囲まれていたのが特徴で、現在においても校章や同窓会組織名称(青桐会)に使われるなど、長らく大東文化のシンボルとなっている。

この期の大東文化学院生らの功績は、膨大な語彙を収めた漢和辞典「大漢和辞典」(大修館書店)の編纂である。同書刊行以前には簡易的な辞書しか存在していなかったが、戯曲や小説を含む中国古典の原文の参照、出典・引用文の再調査など、それまでの辞書が踏襲していた誤記語釈を改め、正していった。

高度な漢学知識を必要とした、その長きに渡る編纂過程の中で原田種成ら学院生は中心的存在として携わった。戦中の資源不足の中に刊行され、戦災で原版を失い、最終的な完成は2000年となった足かけ75年余のこの大事業は、今なお世界最大の漢和辞典としての位置を占めている。

大東文化学院では1925年頃に学内紛争があり、百人近い退学者を出していた。漢字研究者で同学院で教鞭を執っていた諸橋轍次が、行く当てを無くした彼らの再就職までの仕事としてこの辞書編纂事業を引き受けた、という経緯がある。

「大東文化」大学へ

1951年(昭和26年)、法人名を「学校法人文政大学」、大学名を「文政大学」に改称した。さらに卒業生からの強い要望と働きかけにより、新制大学第一期生の卒業間際に大学名の変更許可が下り、1953年(昭和28年)に法人名を「学校法人大東文化大学」、大学名を「大東文化大学」として再出発した。

1956年(昭和31年)には、同校の教授・卒業生・在校生により「書道学会」が発足し、全国的な展覧会を実施。日本国内の書道教育発展の基礎が大東文化大学関係者主導で創られた[5]。その後、学内でも書道分野の教授陣の充実が図られ、これまでに山﨑節堂、熊谷恒子、松井如流、青山杉雨、宇野雪村、上條信山らの大家が名を連ねた。

この頃、校地の狭さなどによる施設不足等が問題となり、大学振興計画案が立てられた。この計画案を前提として、1960年(昭和35年)10月に現在の板橋校舎の土地(当時は東京都板橋区志村西台町)を購入し、同年11月から校舎新築工事に着手、第一期工事は1961年(昭和36年)8月に完成した。

同月には池袋校舎を引き払い、現在地へと全面移転した。

翌年の1962年(昭和37年)4月に、文政学部を文学部(日本文学科・中国文学科)と経済学部(経済学科)に改組し、大東文化大学第一高等学校が開校した。

この間に東洋研究所や大東柔道整復専門学校(大東医学技術専門学校。2012年(平成24年)末閉校)や文政幼稚園(1963年(昭和38年)廃止)が設立されている。

東松山キャンパスの開校から現在まで

学生数の急増に対応するため、埼玉県東松山市の元国有林野にキャンパス建設を計画。1966年(昭和41年)7月から造成工事が昼夜問わず行われ、翌年3月末には新校舎が竣工。そして、すべての教養課程が東松山キャンパスに移行した。

創立50周年記念事業で板橋キャンパスには記念館、研究室の整備が進められた。

1969年(昭和44年)に「大東文化書道文化センター」開設。1988年(昭和63年)には「書道研究所」へ改組された。現在、日本で唯一の書道専門機関となっている。さらに2001年(平成13年)には日本初の書道学科(文学部)が誕生した。 1972年(昭和47年)、大東文化大学附属青桐幼稚園が開園。

1973年(昭和48年)、板橋校舎に開学50周年記念講堂が完成。 1976年(昭和51年)、東武東上線東武練馬駅至近に大東文化会館が竣工。板橋校舎への通学に使用されるいわゆる「学バス」はこの一階を発着場とした。

1986年(昭和61年)には東松山キャンパスに図書館、記念講堂を含む施設が建設された。

1990年代前半、東松山キャンパスの遊休地に授業利用および営利を目的としたパットゴルフ(パターゴルフ)場を造る計画が浮上したが、学生やOBらの反対もあり、頓挫した。同時期、群馬県に新キャンパス用地を取得。

2003年(平成15年)、創設80周年を記念して新たなシンボルマークが制定、同年から2006年(平成18年)まで、板橋キャンパスが再開発され、環境に考慮した校舎や「交流の杜」と「思索の杜」という広場が整備された。

2006年(平成18年)、ビアトリクス・ポター資料館竣工。また、東武練馬駅隣接の大東文化会館の改築が完了した。

2007年(平成19年)に東松山キャンパスは開設40周年を迎え、2008年(平成20年)に総合グラウンドの完成、2015年(平成27年)完工の3工期にわたる新たなキャンパス整備事業に着手した。

また、廃校となった東松山市立緑山小学校[8]を取得。「緑山キャンパス」と改称した。

同校が恙なく存続した場合、2023年(令和5年)に開学100周年を迎える。

所在地[編集]

  • 板橋キャンパス(〒175-8571 東京都板橋区高島平1丁目9番1号)
  • 東松山キャンパス(〒355-8501 埼玉県東松山市岩殿560番地)
  •  緑山キャンパス(〒355-0054 埼玉県東松山市旗立台3番1)
  •  大東文化会館(〒175-0083 東京都板橋区徳丸2丁目4番21)
  •  菅平セミナーハウス(〒386-2204 長野県上田市菅平高原1278番1002)

 象徴[編集]

  •  学園章

「東文」の2文字を配した紋章

桐紋に「東文」の2文字を配した紋章(日本政府が用いる紋章(五七桐花紋)に近い)。