FC東京

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FC東京(エフシーとうきょう、F.C. Tokyo)は、日本の東京都をホームタウンとする、

日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)に加盟するプロサッカークラブ。


概要[編集]

1999年にJリーグへ加盟。ホームタウンは東京都である。ホームスタジアムは調布市の味の素スタジアム(東京スタジアム)である。練習場は、小平市のFC東京小平グランド(東京ガス武蔵野苑)である(2001年までは江東区猿江のFC東京深川グランド)。

このため、地域活動は調布市周辺エリア(三鷹市及び府中市を含む。)、小平市をメインとして、都心23区でも、特に上述の練習拠点があった江東区深川や、かつてJリーグ公式戦を開催したことがある江戸川区・北区・世田谷区を中心として行われている。

クラブ名の「FC東京」は、シンプルで誰にもわかり易く馴染みがあり「都民のためのJクラブ」を目指す観点から制定された。

マスコットキャラクターは『東京ドロンパ』であり、チーム創設10周年に向けてマスコットを選考して、2009年開幕戦より登場した。

2000年までは東京を名乗るJリーグクラブが他に無かったため、「東京」の呼称であったが、2001年に東京ヴェルディ(旧V川崎)がホームタウンを東京都に変更して以降、「FC東京」や「F東京」などと表記されている。なお、Jリーグの公式情報やスポーツ振興くじ(toto)等での紙面が限られる公式発行物に関しては、F東京として掲載される場合が多い[4][5](但し日刊スポーツでは「FC」を入れず、単に「東京」と表記)。

プロ化以前の呼称東京ガスから来る『ガス』が現在でもFC東京を指し示す独自の呼称として残っているのはこうした理由にもよる。ニックネームにはこの他ユニフォームのカラーから採られた『青赤軍団』がある。

運営法人[編集]

1998年10月1日、東京ガスなど161団体が出資した 運営法人『東京フットボールクラブ株式会社』を設立。

FC東京の運営法人については、東京に関わりを持つできるだけ多くの企業・自治体の共同出資とし、特定の企業の影響を受けない独立性の有るものとするという方針が採られた。1997年に東京ガスサッカー部部長鳥原光憲及びその上司でJFL評議会会長の上原英治が方針を固め、東京ガス上層部の了承を得てのものであった。

上記経緯から、設立当初から東京ガスとは親子会社の関係に無く、他の主要株主も持株比率は5%程度に留まっている。

歴代の代表取締役社長にはいずれも東京ガス出身者が就いており、役員の多数は主要株主からの出向である。

経営情報[編集]

資産
年度 総資産 総負債 資本金
2014 1,807 379 1,092
2015 2,511 706 1,092
2016 2,310 377 1,137
2017 2,688 641 1,137

金額の単位:百万円



 歴史 [編集]

前史 1935年に結成された「東京ガスサッカー部」が前身であり、1991年に日本サッカーリーグ2部へ昇格。1992年からジャパンフットボールリーグへ参加。

1997年に『東京ガスフットボールクラブ』へ改称し、Jリーグへの参加を表明。1998年には翌シーズンよりクラブ名称を『FC東京』とする改称及び東京都をホームタウンとしてプロクラブ化し、

1999年からのJリーグ加盟とJリーグ ディビジョン2(J2)参加が決まった。

1999年(J2) 1999年、東京都を本拠地とする初めてのチームとしてJリーグ加盟。プロ契約を結ばない東京ガス時代からの選手が多数を占める中、

堅実な戦いで[22] シーズン中盤まで2位以内をキープ。第27節仙台戦でFWアマラオがクラブ初のハットトリックを達成。しかし、ナビスコカップを勝ち上がったことによる過密日程や[22]アマラオの負傷欠場によって、

終盤には4連敗を喫してJ1昇格圏外へ追い込まれた。最終節で大分をかわして2位に入り(1999年J2最終節参照)、Jリーグ ディビジョン1(J1)昇格を果たした。

Jリーグヤマザキナビスコカップでは、神戸、市原、横浜FMのJ1チームを下してベスト4に進出、MF佐藤由紀彦がニューヒーロー賞に選出された。

2000年 2000年は「東京」を名前に持つクラブとして初のJ1進出。10名の社員選手を有するなど、他のJ1クラブに比べ予算・戦力共に小規模ながら開幕5節で4勝1敗の成績で首位に立つなど旋風を起こし、年間総合順位は7位。新加入のGK土肥洋一が好守を見せ、以後2006年に至るまでリーグ戦216試合連続フル出場というJリーグ記録を残した。

攻撃ではFWアマラオと、川崎から期限付き移籍で加入したツゥットのコンビが得点を量産。ツゥットはリーグ2位となる17得点を挙げて、クラブ初のJリーグベストイレブンにも選ばれた。なお、ツゥットはシーズン終了後に浦和へ完全移籍した。

天皇杯は初戦でJ2甲府に敗退。

2001年

2001年に収容人員49,000人の新本拠地・東京スタジアム(現:味の素スタジアム)が完成・使用開始となった事により観客動員数が飛躍的に増加。スタジアムのこけら落しとなった開幕戦では、川崎市から移転し呼称変更した東京ヴェルディ1969との初の東京ダービーとなり、新加入の元日本代表FW呂比須ワグナーのVゴールで制した。

呂比須は4月4日のナビスコカップ甲府戦でハットトリックを挙げるなど序盤こそ活躍したものの、アマラオとプレースタイルが重複することなどから徐々に出場機会が減り、チーム加入後わずか半年で福岡へ完全移籍。しかし、その頃には開幕直前に急遽獲得したブラジル人MFケリーがチームにフィットし、司令塔として攻撃陣を掌握。以後4年間攻撃の核として活躍した。

天皇杯初戦で横浜FCに破れ、2年連続でJ2勢に初戦敗退を喫した。この試合を最後に、東京ガス時代以来7年間指揮を執った大熊清が監督を退任。

2002年

2002年、監督に原博実を迎えて攻撃サッカーを指向した強化を進め、開幕戦では前年優勝の鹿島から4点を奪い圧勝。しかしこの試合でMVP級の活躍を見せた小林成光は交通事故で、攻守の起点となった三浦文丈は第2節浦和戦で負傷し、共に長期離脱を強いられた。

一方、この年に移籍加入した選手達が5月以降レギュラーに成長。DF加地亮とMF石川直宏が右サイドでの攻撃を活性化させ、DF茂庭照幸も新加入のブラジル人CBジャーンとのコンビで堅守を築いた。また、入団2年目のMF宮沢正史もプレースキッカーとして能力を発揮し、ボランチのレギュラーを掴んだ。シーズン終了後、佐藤由紀彦が横浜FMへ期限付き移籍で退団した(その後完全移籍)。

また、この年尾亦弘友希・馬場憂太がチーム初のアカデミーからのトップチーム昇格を果たし[24][2]、FC東京U-18所属の呉章銀がこれも初となる2種登録選手でJリーグデビューし、当時のJ1最年少記録となる16歳8ヶ月20日でJ1初出場を果たした。

2003年

チームスローガン:90分間、攻撃サッカー。

2003年は、原体制2年目。DF金沢浄が加入し、リーグ最小失点を記録。1st、2ndステージ共に優勝戦線に絡み、年間順位4位の成績。また、シーズン初戦だった3月8日のナビスコ杯・横浜FM戦(横浜国際総合競技場)で、FC東京U-18所属の高校生だった梶山陽平がトップチームでの公式戦に初出場した。一方で、天皇杯を最後に、旧JFL時代からチームを牽引し『KING OF TOKYO』として親しまれたFWアマラオが湘南へ移籍した。

8月にはスペイン・レアル・マドリードとクラブ史上初の国際親善試合を開催。


また、加地亮茂庭照幸がクラブ所属選手初の日本代表として出場した

2004年

チームスローガン:攻激、攻劇、攻撃サッカー。

原体制3年目。アマラオに代わってFWルーカスを獲得。また、MF今野泰幸が札幌から加入し、ユースからは李忠成、梶山陽平、呉章銀が昇格。

8月にはスペイン遠征を行い、デポルティーボ・ラ・コルーニャの恒例プレシーズンマッチ、トロフェオ・ファンアクーニャ(ガリシア語版)に招かれ、これを制し、帆船型のトロフィーを獲得。

リーグ戦は年間8位の成績。ナビスコカップでは、日本代表およびU-23日本代表によって複数の主力を欠く中[23]決勝進出。同カップで初めてベストメンバーを揃えて臨んだ[23]決勝戦では浦和を延長・PK戦の末に破り、初優勝を果たし、Jリーグ加盟後初の公式タイトルを獲得した。

2005年 チームスローガン:攻めて取る。攻めて獲る。

原体制4年目。ケリーが退団したが、若手へシフトする意味で大きな補強はしなかった。

開幕直後はそれまで苦手とした磐田に勝利し首位に立つなどしたが、それ以後は4-3-3の新布陣や新加入MFダニーロの不発などでチームワーストの6連敗を喫し、優勝戦線から早々に脱落。5月には原の監督解任が現実味を帯びた時期もあり、

9月の横浜FM戦(日産スタジアム)で石川直宏の負傷退場(膝靭帯完全断裂により復帰まで約8か月を要した)、直後のルーカスの意識不明・救急車搬送による試合終了等もあった。終盤戦は12試合負けなしの成績も残して、年間順位は10位。最終節ではC大阪の優勝を阻止した。シーズン終了後に、原が監督を退任。また、加地亮がG大阪へ移籍した。

なお、この年は7月9日の東京ダービー(東京V戦、FC東京主催試合)の試合前、FC東京サポーターによる傷害事件が発生した(FC東京側のサポーター約200名がコンコースにて東京Vサポーターに向け挑発行為に及んだ際、FC東京サポーター1名が場内に設置されていた灰皿のフタを東京V側の群衆に投げつけて、東京Vのクラブ職員、警官、一般人を負傷させ傷害罪で逮捕)。

この試合の管理責任者として、FC東京にはJリーグから1000万円の罰金が科せられた。


2006年

チームスローガン:Ousadia 〜信頼・勇気・挑戦〜

クラブ初の外国籍監督となるブラジル人・ガーロが監督就任。速攻主体のチームを、ボールの保持(ボールポゼッション)を主体とするパスサッカーへの転換を図ったが、3バックの採用や「マンマークを徹底する」守備を基本とし、短いパスで攻撃を構築しようとする戦術はなかなか奏功せず、4月15日の第8節千葉戦では前半に完全にゲームを支配され後半9分までに3失点を喫し惨敗。

ブラジルと比較すると緩急が少なく、運動量とスピードでの攻めの多いJリーグでの相手攻撃を防ぐのに苦戦した。加えて、怪我人も多発し戦術の刷り合わせも図れなくなり、ナビスコ杯では2分4敗の予選リーグ最下位で敗退。更にガーロの要望で獲得したブラジル人FWワシントンも、投入された試合ですぐさま退場処分を受けるなど不発。

7月22日の鹿島戦で4失点を喫し敗れると(2 - 4)、29日の広島戦(0-2)、8月5日のプレシーズンマッチ・FCソウル戦(0-3)、12日の浦和戦(0 - 4)と連敗し、8月15日にクラブ初となるシーズン途中での監督解任が発表された。

後任監督には1995年から大熊や原の下で長くヘッドコーチを務め、この年からFC東京U-18の監督となっていた倉又寿雄が就任。第18節千葉戦から指揮を執り、布陣を4バックに戻すなど修正を施しリーグ戦を13位で終えた。

シーズン終了と共に倉又が監督を退任(U-18監督へと復帰)。12月5日に原が監督に再任された。また、この年限りでジャーン(湘南へ移籍)、三浦文丈(引退)、宮沢正史(大分へ移籍)、戸田光洋(清水へ移籍)などが退団。

2006 FIFAワールドカップ日本代表に土肥洋一と茂庭照幸の2人がクラブとして初めて選出され、茂庭はオーストラリア代表戦に出場。クラブ初のW杯出場選手となった。

2007年

チームスローガン:It's Our Time 〜青き疾風、赤い怒涛〜

2007年は再び原体制となり、コスタリカ代表FWのパウロ・ワンチョペ、磐田から元日本代表MF福西崇史、ブラジル人DFエバウドを獲得した。

しかし、ワンチョペの動きには一向にキレが戻らず、エバウドと茂庭照幸の両センターバックも負傷により低調で、攻守の軸が定まらず、開幕からつまづいた。J2だった1999年から2006年まで8季(旧JFL時代の1997年、1998年を含めると10季)続けて開幕戦に勝利していたが、広島に敗れ、開幕戦連勝記録も止まった。ワンチョペはシーズン途中で退団。更に、U-22代表として梶山陽平、伊野波雅彦、平山相太の三人が、フル代表として今野泰幸が常時招集されており、

中でもスタメンであった梶山が代表戦での怪我で9月に離脱した。年間成績は12位で終了。なお、第28節横浜FM戦の勝利で、J1通算100勝を達成した。

原は1年限りで監督を退任。

2008年

チームスローガン:Moving Football 〜ボールも・身体も・観ている人の心も〜

2008年、U-17日本代表元監督の城福浩が監督に就任。

土肥洋一、福西崇史(共に東京Vへ移籍)に加え、MF馬場憂太(千葉へ)、鈴木規郎(神戸へ)、伊野波雅彦(鹿島へ)、FWルーカス(G大阪へ)らがそれぞれ移籍。一方でMF羽生直剛、FWカボレ、DF長友佑都(前年は特別指定)らを獲得。城福は戦術に「ムービングフットボール」を掲げ、2006年に臨んだポゼッションサッカーへ再挑戦した。

夏場には白星から遠ざかるが、第30節鹿島戦では長友、カボレらの得点で快勝するなど好調に転じ、シーズン終盤まで優勝の可能性を残した位置での戦いを続けた。

最終節ではJ2降格危機にあった千葉に対して終盤11分間で4点を奪われて逆転負けを喫した(その結果、千葉が残留し東京Vが降格)。

リーグ戦年間成績は6位に浮上。天皇杯でも東京ガス時代の1997年以来となるベスト4へ進出した。

2009年

チームスローガン:Moving Football 〜観ている人の心を動かせ〜

城福体制2年目。福岡から中村北斗、水戸から平松大志を獲得した。序盤戦は低迷するが、MF今野泰幸をCBにコンバートし、ブルーノ・クアドロスとコンビを組ませ、またボランチに梶山陽平と高卒ルーキー米本拓司を固定した頃から守備が安定。更に、石川直宏の24試合で15得点を挙げる大活躍によってリーグ戦の順位も上がり、ACL出場圏内入りは逃したものの5位に入った。

また、長友佑都と石川がJリーグベストイレブンに選出された。2名が受賞したのはクラブ初。また、GK権田修一がリーグ戦の年間完封試合数タイ記録を打ち立てた。

ナビスコカップは決勝で川崎に勝利して優勝。また、この試合で先制点を挙げた米本はニューヒーロー賞とMVPを獲得した。この年より、マスコットの『東京ドロンパ』が登場。

2010年 チームスローガン:Moving Football 〜心をひとつに〜

城福体制3年目。2002年からユニフォームの胸スポンサーだったENEOSが撤退し補強予算が狭められる中、浅利悟が引退し、藤山竜仁が札幌へ移籍。茂庭照幸に戦力外を通告、契約交渉で折り合わずブルーノ・クアドロスが退団、佐原秀樹が期限付き移籍期間満了に伴い、川崎に復帰した。退団が相次いだセンターバックには大分から森重真人、全州大学校からキム・ヨングンを、

また、新潟からMF松下年宏を、ブラジルのABC FCからFWリカルジーニョを期限付き移籍で獲得するも、登録選手はJ1最少の26人、選手の平均年齢はJ1で2番目の若さという陣容だった。

シーズン開幕直前、米本拓司が前十字靭帯・半月板を損傷。梶山陽平も左足首手術からのコンディション調整に苦しみ、序盤は前年のレギュラーボランチ両名を欠く厳しい選手構成となった。開幕戦こそ4年ぶりに勝利を収めたが(1 - 0 対横浜FM・味スタ)、J1中断期間前までは得失点ともに少なく引き分ける試合が多かった。

また、2010 FIFAワールドカップ日本代表に今野泰幸、長友佑都が選出された[24]。なお、長友はW杯終了後にイタリア・チェゼーナへ期限付き移籍で退団した。W杯期間中にFW大黒将志らを獲得。大黒の得点もあってスルガ銀行チャンピオンシップで勝利し、前年に続くタイトル獲得には成功したものの、なかなか勝ち点を伸ばせないまま、9月に城福を解任。

後任に大熊清が就任したが、最終節で京都に敗戦し、最終節に勝利した神戸に入れ替わりで年間順位が16位となり、J2降格が決まった。

2011年

チームスローガン:TOKYO SPIRIT〜すべては勝つために〜

大熊体制2年目。赤嶺真吾(レンタル移籍していた仙台へ完全移籍)、キム・ヨングン(大宮へ完全移籍)、リカルジーニョなどが退団した。一方で、FWロベルト・セザーらを獲得、層の薄さに苦しんだ前年の経験を踏まえ、MF谷澤達也など各ポジションにJ2での経験を持つ選手を加えた。

2月には「FC東京のある“まち”」というテーマでの演劇が調布市せんがわ劇場にて公演され、FC東京からは特別審査員として新任の阿久根謙司代表取締役と藤山竜仁普及部コーチが出席した。

4月には東北地方太平洋沖地震及び長野県北部地震の復興支援のため、松本山雅FCとのチャリティーマッチを開催。また、宮城県出身の今野泰幸が発起人の1人となり、「東北人魂を持つJ選手の会」を設立。秋田県出身の下田光平もこれに参加し、東北地方のサッカー復興に向けて活動した。

リーグ戦序盤を勝ち切るためのキーマンとされたFW平山相太 が長期離脱するなど、立石敬之強化部長が「想像を超えて最悪に近いほど故障者が出た。しかも軸になる選手ばかり[28]」と言う程の状況に陥り、序盤は7戦で4得点、2勝に留まり苦しんだが、田邉草民や高橋秀人の抜擢、羽生直剛をトップ下に据える 4-2-3-1布陣の採用により徐々に地力を見せ始めた。さらに、2007年まで在籍していたFWルーカスらを補強。第18節を終えた段階で昇格圏内に入り、以後上位をキープ。11月19日の鳥取戦で勝利し、1年でのJ1復帰を決めた。翌20日に2位の鳥栖が敗れ、J2優勝を決めた。

天皇杯は決勝で京都に勝利し、前身の東京ガスサッカー部を含めたクラブ創設後初、J2勢として初となる天皇杯制覇を果たし、クラブ初のAFCチャンピオンズリーグ(ACL)の出場権を獲得した。同決勝戦を以て大熊は監督を退任。

2012年

チームスローガン:C・O・A Football

監督に前町田監督のランコ・ポポヴィッチが就任。

今野泰幸がG大阪へ、鈴木達也が徳島へ完全移籍した一方、横浜FMから渡邉千真、長谷川アーリアジャスール、磐田から加賀健一、清水から太田宏介、東京Vから河野広貴を完全移籍で獲得、また、期限付き移籍していた選手を復帰させるなど、2年ぶりのJ1及び初のACLでの戦いに向け陣容を整えた。

渡邉、長谷川らの活躍でACLはグループリーグを突破し、ベスト16進出。中断期間中に谷澤達也が退団するも、新加入のネマニャ・ヴチチェヴィッチが穴を埋めた。リーグ戦は10位、ナビスコ杯はベスト4、天皇杯は2回戦敗退に終わった。

2013年

チームスローガン:C・O・A Football~さらなる進化をめざして~

ポポヴィッチ体制2年目。羽生直剛、梶山陽平らが期限付き移籍でチームを離れるも、大宮から東慶悟を完全移籍で、イングランド2部・サウサンプトンから李忠成を期限付き移籍で獲得。

シーズン途中で李が所属元へ復帰、田邉草民が業務提携を結んだスペイン2部・サバデルへ期限付き移籍。

リーグ戦では第3節から4連敗し12位まで順位を下げたものの、得点源となった渡邉千真を中心にJ1におけるクラブ史上通年最多得点を記録。第8節からの3連勝と第24節からの4連勝でいずれも5位まで順位を上げたが、翌年のACL出場権を得られる3位以上には届かず、

第33節柏戦での敗戦により賞金圏内の7位からも脱落、8位でシーズンを終えた。

ナビスコカップは決勝トーナメント進出を逃し、天皇杯では準決勝でPK戦の末広島に敗れ3位に終わった。

契約満了によりこの年限りでポポヴィッチ監督が退任。FWルーカスが現役を引退した。

なお、この年東京都が2020年に開催されるオリンピック・パラリンピックの招致に成功。FC東京は招致PRイベントを行うなどクラブを挙げてこの活動を支援しており、2016年大会招致活動の頃からの協力が実った形となった。

2014年

チームスローガン:Bello e Aggressivo! -限界を超えて頂点へ-

新監督にACチェゼーナ元監督のマッシモ・フィッカデンティが就任。

ネマニャ・ヴチチェヴィッチが退団、長谷川アーリアジャスールがC大阪、中村北斗が大宮にそれぞれ完全移籍。FWエドゥー、MF武藤嘉紀(前々年から特別指定)らを獲得し、梶山陽平、羽生直剛が期限付き移籍から復帰した。

リーグ戦序盤はなかなか勝てなかったものの、中盤に入るとフィッカデンティの戦術が浸透し、試合運びが安定。守備面では2003年以来となる5試合(J1第16節から第20節まで)連続無失点を記録し、リーグ戦総失点も前年の47失点から33失点と大きく改善した。一方攻撃面ではFWに転向した武藤がリーグ新人最多得点記録タイの13得点を挙げる活躍を見せた。

クラブ記録となる14試合(J1第13節から第26節まで。)無敗を記録し、一時は5位(J1第18節、第21節から第22節まで)にまで浮上したが、第27節で無敗記録が途切れてからは失速し、最終的には9位でシーズンを終えた。

ナビスコ杯はグループリーグ敗退、天皇杯はベスト16に終わった。また、昨年引退したルーカスが功労選手賞を受賞した。

2015年

チームスローガン:Bello e Aggressivo! -すべては勝利のために-

フィッカデンティ体制2年目。エドゥー、塩田仁史、渡邉千真らが退団し、前田遼一、榎本達也らを獲得。丸山祐市、林容平、橋本拳人が期限付きから復帰。

1stステージはFW前田のフィットが遅れたものの、前年からの堅守を軸に前半戦だけで10得点を挙げた武藤嘉紀の頑張りと、キッカーの太田宏介を中心としたセットプレーで得点を重ね、2度の4連勝と健闘。2ステージ制のステージ毎の順位としては過去最高の2位に付けた。

1stステージ終了後には武藤がドイツ・マインツへ移籍し、ネイサン・バーンズ、サンダサの2人のFWが加入した。

2ndステージは復調した前田がFWの軸になり、新外国人の2人がそのパートナーを務めるようになったものの、武藤退団の穴は埋め切れず、終盤第13節からは東慶悟がFWを務めた。さらに正GKの権田修一がオーバートレーニング症候群で第5節を最後に離脱したためブラダ・アブラモフを緊急補強し、第10節以降の正GKを務めさせた。

1stステージほど勝ち点を伸ばせなくなり、最終節開始時点では年間3位につけるも、同節の鳥栖戦を引分けたために、同節勝利のG大阪との入れ替わりで年間順位4位に転落。過去最高の勝ち点、最高タイの年間順位を記録したものの、チャンピオンシップの出場を逃した。その後、G大阪・浦和の天皇杯決勝進出に伴う繰り上がりで翌2016年のACLプレーオフ(PO)出場権を獲得。

ナビスコ杯、天皇杯は共にベスト8で終了。同年末にフィッカデンティが退任。

2016年

チームスローガン:Challenge the Top -頂戦-

フィッカデンティ監督の後任に2008年から2010年途中まで指揮していた城福浩が再任。ブラダ・アブラモフ、太田宏介らが退団。権田修一がSVホルンにレンタル移籍。湘南から秋元陽太、鳥栖から水沼宏太、甲府から阿部拓馬、明治大学から室屋成(前年は特別指定選手)、磐田から駒野友一、中国・北京国安からハ・デソンらが加入した(駒野及びハは1stステージ終了後にそれぞれ福岡・名古屋へ期限付き移籍)。

また2月13日に、2015年シーズンに密着したドキュメンタリー映画『BAILE TOKYO』が公開[38]。主題歌はRIP SLYMEの「Baile TOKYO」[39]。

この年より「FC東京U-23」を発足させJ3リーグに参入。

同年の公式戦初戦となるAFCチャンピオンズリーグ2016のプレーオフではチョンブリーFCを相手にクラブ最多得点記録を更新した 9-0で大勝。4年ぶり2度目となるACL本戦出場権を掴んだ。本戦では全北現代(韓国)、江蘇蘇寧(中国)、ビンズオン(ベトナム)と対戦。グループリーグ突破は最終節までもつれたが、同節は前田遼一の2得点の活躍で勝利し決勝トーナメント進出を決めた。決勝トーナメント1回戦では上海上港(中国)と対戦。ホームでの第1戦は水沼が2得点を挙げ先勝したが(2-1)、アウェー・上海体育場での第2戦は試合終了間際に失点し(0-1)、1勝1敗。アウェーゴールの差で敗退した。

リーグ戦では序盤より怪我人が続出しメンバー繰りに苦戦。またACLプレーオフ出場のためオフやキャンプの期間が短くなった影響により、フィジカルコンディション不足・スタミナ不足に陥る。

1stステージでは攻守のバランスに苦心しながらも堅守に立ち返って徐々に浮上し9位で終えた。しかし、2ndステージでは先制しながらも試合終了間際に失点し逆転負けするゲームが頻発したため、7月23日の2ndステージ第5節川崎戦敗北後に城福を解任。後任にはコーチで元福岡監督の篠田善之が監督に昇格。篠田就任後、8勝2敗2分と安定感を取り戻し年間9位でリーグ戦を終えた。

2017年

チームスローガン:TOKYO GRIT~すべての力を~

篠田体制2年目。榎本達也が引退(その後、普及部コーチに就任)、駒野友一、平山相太、高橋秀人らが退団。

名古屋から永井謙佑、鳥栖から林彰洋、川崎から大久保嘉人、FCソウルから髙萩洋次郎らを獲得。1月には太田宏介が完全移籍で2年ぶりにチームに復帰。更に3月には広島から前年得点王のピーター・ウタカを期限付き移籍で獲得するというクラブ史上例の無い大型補強を敢行した。

夏の移籍情報ではリッピ・ヴェローゾ、チャン・ヒョンス、ジャキット・ワクピロムを獲得。また、バーンズが6月30日付で契約満了して広島に移籍。そして河野が鳥栖、阿部が蔚山現代FCに完全移籍、中島がポルティモネンセSCに期限付き移籍した。11月1日には、ユース所属の久保建英と平川怜がプロ契約を結んだ。

序盤こそ順調に勝ち点を稼いでいたものの14節清水エスパルス戦から6試合未勝利、その後22節のヴィッセル神戸戦から4試合未勝利と成績が低迷。YBCルヴァンカップではグループリーグ終盤で失速。広島とのプレーオフを制しノックアウトステージへと進んだものの1回線で川崎にトータルスコア1-7を付けられ大敗。天皇杯でも2回戦で長野に敗戦しカップ戦は早期敗退となった。

9月10日、監督の篠田が成績不振により退任し、コーチの安間貴義が昇格してシーズン終了まで暫定監督を務めた。監督交代後の成績は1勝4敗4分とチームは低迷。特に第27節以降は勝ちがなくチームを立て直すことが出来ずJ1復帰後としては史上最低の13位でシーズンを終えた。

また、立石敬之が当年度をもってGMを退任(その後ベルギーリーグのシント=トロイデンVVのCEOに就任)。

2018年

チームスローガン:強く、愛されるチームを目指して

長谷川健太が新監督就任。神戸から大森晃太郎を完全移籍で獲得。横浜から富樫敬真、柏からディエゴ・オリベイラを期限付き移籍で加入。また、中央大学から矢島輝一、U-18から原大智と品田愛斗が新加入。

開幕戦こそ引き分けるも、その後ベガルタ仙台・ジュビロ磐田と2試合連続して敗戦。第4節の湘南ベルマーレ戦より新戦力のディエゴ・オリヴェイラがチームにフィットし始め長谷川健太が掲げる「ファストブレイク」戦法も定着した事もあり第20節のヴィッセル神戸戦まで順調に勝ち点を稼ぎ続けていた。

しかし夏の移籍市場で新戦力の獲得に失敗。ヴァンフォーレ甲府より期限付き移籍でリンスを獲得したのみに留まり選手編成も固定化。

更には戦術も対戦相手に研究され始めた事で攻撃陣は沈黙し徐々に順位を落とし始め最終的に6位でフィニッシュした。

シーズン終了後、梶山陽平が引退を発表した。


2019年

チームスローガン:強く愛されるチームを目指して

ディエゴ・オリヴェイラが完全移籍に切り替わり、鳥栖から田川亨介、新潟から宮崎幾笑、山形から児玉剛を獲得、横浜FMの久保建英、福岡のユ・インスが期限付き移籍から復帰。また外国籍選手枠の拡大に目をつけ、グレミオからジャエル、光州FCからナ・サンホ、バンコク・ユナイテッドからナッタウット、ヴォトゥボランゲンセからアルトゥール・シルバと多数の助っ人を獲得。

新人は東福岡高校の中村拓海、中央大学の渡辺剛を獲得した。

田邉草民が福岡、大久保択生が鳥栖、前田遼一が岐阜、米本拓司が名古屋へそれぞれ完全移籍。リンス、富樫敬真はレンタル期間満了のため退団した。

前半戦は久保建英が抜擢され大きくブレイク。戦術、メンバーともほぼ昨年からの踏襲だったが久保の活躍もあり開幕から12戦無敗(9勝3分)とスタートダッシュに成功。第8節で広島との無敗対決を制して首位に立つと、そのまま前半戦は首位を独走した。

しかし夏の移籍市場で久保はレアル・マドリードに移籍、チャン・ヒョンスがアル・ヒラル、太田宏介が名古屋と主力級選手が複数流出。味の素スタジアムがラグビーワールドカップ2019の試合会場となったこともあり、第24節からアウェー8連戦の強行日程が組まれていた。

だが夏場に急失速した昨シーズンと異なり、件のアウェー8連戦も4勝2分2敗で乗り切るなど大崩れはせず、第27節まで首位をキープ。しかし調子を上げてきた鹿島、横浜FMに追い上げられ、28節で一度鹿島に首位を奪われる。

31節で再度首位に浮上するも、ホーム味スタに帰還した32節から湘南、浦和と下位相手に連続で引き分け、ここを連勝した横浜FMに首位を奪われる。特に浦和戦はディエゴ・オリヴェイラと永井謙佑の2トップが揃って負傷する痛恨の引き分けとなった。最終節は横浜FMとの直接対決。優勝には4点差以上での勝利が必要な中、前節右肩を脱臼した永井が強行出場するも、0-3で敗戦しリーグ優勝には届かなかった。だがリーグ戦の19勝7分8敗の勝ち点64、2位という結果はともにクラブ史上最高記録を更新した。

2020年

チームスローガン:強く愛されるチームを目指して

2020年度は新型コロナウイルスの影響で第1節(2/23 対清水エスパルス)を行った後約4か月の空白期間となった。

久々の試合となった第2節(7/4 対柏レイソル)では0-1で勝利するものの、第3節(7/8 対川崎 ・第35回多摩川クラシコ)では0-4と大敗。

その後ACLに出場するため不参加のチーム以上の過密日程を強いられたものの、中盤戦は安定し最終的には17勝11敗6分でリーグ順位は6位と比較的上位で幕を閉じた。

2021年1月4日に国立競技場行われたYBCルヴァンカップでは柏レイソルと対決し、見事1-2で勝利、王者となった。