FC東京
FC東京(エフシーとうきょう、F.C. Tokyo)は、日本の東京都をホームタウンとする、
日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)に加盟するプロサッカークラブ。
概要
1999年にJリーグへ加盟。ホームタウンは東京都である。ホームスタジアムは調布市の味の素スタジアム(東京スタジアム)である。練習場は、小平市のFC東京小平グランド(東京ガス武蔵野苑)である(2001年までは江東区猿江のFC東京深川グランド)。
このため、地域活動は調布市周辺エリア(三鷹市及び府中市を含む。)、小平市をメインとして、都心23区でも、特に上述の練習拠点があった江東区深川や、かつてJリーグ公式戦を開催したことがある江戸川区・北区・世田谷区を中心として行われている。
クラブ名の「FC東京」は、シンプルで誰にもわかり易く馴染みがあり「都民のためのJクラブ」を目指す観点から制定された。
マスコットキャラクターは『東京ドロンパ』であり、チーム創設10周年に向けてマスコットを選考して、2009年開幕戦より登場した。
2000年までは東京を名乗るJリーグクラブが他に無かったため、「東京」の呼称であったが、2001年に東京ヴェルディ(旧V川崎)がホームタウンを東京都に変更して以降、「FC東京」や「F東京」などと表記されている。なお、Jリーグの公式情報やスポーツ振興くじ(toto)等での紙面が限られる公式発行物に関しては、F東京として掲載される場合が多い[4][5](但し日刊スポーツでは「FC」を入れず、単に「東京」と表記)。
プロ化以前の呼称東京ガスから来る『ガス』が現在でもFC東京を指し示す独自の呼称として残っているのはこうした理由にもよる。ニックネームにはこの他ユニフォームのカラーから採られた『青赤軍団』がある。
運営法人
1998年10月1日、東京ガスなど161団体が出資した 運営法人『東京フットボールクラブ株式会社』を設立。
FC東京の運営法人については、東京に関わりを持つできるだけ多くの企業・自治体の共同出資とし、特定の企業の影響を受けない独立性の有るものとするという方針が採られた。1997年に東京ガスサッカー部部長鳥原光憲及びその上司でJFL評議会会長の上原英治が方針を固め、東京ガス上層部の了承を得てのものであった。
上記経緯から、設立当初から東京ガスとは親子会社の関係に無く、他の主要株主も持株比率は5%程度に留まっている。
歴代の代表取締役社長にはいずれも東京ガス出身者が就いており、役員の多数は主要株主からの出向である。
経営情報
年度 | 総資産 | 総負債 | 資本金 |
---|---|---|---|
2014 | 1,807 | 379 | 1,092 |
2015 | 2,511 | 706 | 1,092 |
2016 | 2,310 | 377 | 1,137 |
2017 | 2,688 | 641 | 1,137 |
金額の単位:百万円
歴史
前史 1935年に結成された「東京ガスサッカー部」が前身であり、1991年に日本サッカーリーグ2部へ昇格。1992年からジャパンフットボールリーグへ参加。
1997年に『東京ガスフットボールクラブ』へ改称し、Jリーグへの参加を表明。1998年には翌シーズンよりクラブ名称を『FC東京』とする改称及び東京都をホームタウンとしてプロクラブ化し、
1999年からのJリーグ加盟とJリーグ ディビジョン2(J2)参加が決まった。
1999年(J2) 1999年、東京都を本拠地とする初めてのチームとしてJリーグ加盟。プロ契約を結ばない東京ガス時代からの選手が多数を占める中、
堅実な戦いで[22] シーズン中盤まで2位以内をキープ。第27節仙台戦でFWアマラオがクラブ初のハットトリックを達成。しかし、ナビスコカップを勝ち上がったことによる過密日程や[22]アマラオの負傷欠場によって、
終盤には4連敗を喫してJ1昇格圏外へ追い込まれた。最終節で大分をかわして2位に入り(1999年J2最終節参照)、Jリーグ ディビジョン1(J1)昇格を果たした。
Jリーグヤマザキナビスコカップでは、神戸、市原、横浜FMのJ1チームを下してベスト4に進出、MF佐藤由紀彦がニューヒーロー賞に選出された。
2000年 2000年は「東京」を名前に持つクラブとして初のJ1進出。10名の社員選手を有するなど、他のJ1クラブに比べ予算・戦力共に小規模ながら開幕5節で4勝1敗の成績で首位に立つなど旋風を起こし、年間総合順位は7位。新加入のGK土肥洋一が好守を見せ、以後2006年に至るまでリーグ戦216試合連続フル出場というJリーグ記録を残した。
攻撃ではFWアマラオと、川崎から期限付き移籍で加入したツゥットのコンビが得点を量産。ツゥットはリーグ2位となる17得点を挙げて、クラブ初のJリーグベストイレブンにも選ばれた。なお、ツゥットはシーズン終了後に浦和へ完全移籍した。
天皇杯は初戦でJ2甲府に敗退。
2001年
2001年に収容人員49,000人の新本拠地・東京スタジアム(現:味の素スタジアム)が完成・使用開始となった事により観客動員数が飛躍的に増加。スタジアムのこけら落しとなった開幕戦では、川崎市から移転し呼称変更した東京ヴェルディ1969との初の東京ダービーとなり、新加入の元日本代表FW呂比須ワグナーのVゴールで制した。
呂比須は4月4日のナビスコカップ甲府戦でハットトリックを挙げるなど序盤こそ活躍したものの、アマラオとプレースタイルが重複することなどから徐々に出場機会が減り、チーム加入後わずか半年で福岡へ完全移籍。しかし、その頃には開幕直前に急遽獲得したブラジル人MFケリーがチームにフィットし、司令塔として攻撃陣を掌握。以後4年間攻撃の核として活躍した。
天皇杯初戦で横浜FCに破れ、2年連続でJ2勢に初戦敗退を喫した。この試合を最後に、東京ガス時代以来7年間指揮を執った大熊清が監督を退任。
2002年
2002年、監督に原博実を迎えて攻撃サッカーを指向した強化を進め、開幕戦では前年優勝の鹿島から4点を奪い圧勝。しかしこの試合でMVP級の活躍を見せた小林成光は交通事故で、攻守の起点となった三浦文丈は第2節浦和戦で負傷し、共に長期離脱を強いられた。
一方、この年に移籍加入した選手達が5月以降レギュラーに成長。DF加地亮とMF石川直宏が右サイドでの攻撃を活性化させ、DF茂庭照幸も新加入のブラジル人CBジャーンとのコンビで堅守を築いた。また、入団2年目のMF宮沢正史もプレースキッカーとして能力を発揮し、ボランチのレギュラーを掴んだ。シーズン終了後、佐藤由紀彦が横浜FMへ期限付き移籍で退団した(その後完全移籍)。
また、この年尾亦弘友希・馬場憂太がチーム初のアカデミーからのトップチーム昇格を果たし[24][2]、FC東京U-18所属の呉章銀がこれも初となる2種登録選手でJリーグデビューし、当時のJ1最年少記録となる16歳8ヶ月20日でJ1初出場を果たした。
2003年
チームスローガン:90分間、攻撃サッカー。
2003年は、原体制2年目。DF金沢浄が加入し、リーグ最小失点を記録。1st、2ndステージ共に優勝戦線に絡み、年間順位4位の成績。また、シーズン初戦だった3月8日のナビスコ杯・横浜FM戦(横浜国際総合競技場)で、FC東京U-18所属の高校生だった梶山陽平がトップチームでの公式戦に初出場した。一方で、天皇杯を最後に、旧JFL時代からチームを牽引し『KING OF TOKYO』として親しまれたFWアマラオが湘南へ移籍した。
8月にはスペイン・レアル・マドリードとクラブ史上初の国際親善試合を開催。
また、加地亮・茂庭照幸がクラブ所属選手初の日本代表として出場した
2004年
チームスローガン:攻激、攻劇、攻撃サッカー。
原体制3年目。アマラオに代わってFWルーカスを獲得。また、MF今野泰幸が札幌から加入し、ユースからは李忠成、梶山陽平、呉章銀が昇格。
8月にはスペイン遠征を行い、デポルティーボ・ラ・コルーニャの恒例プレシーズンマッチ、トロフェオ・ファンアクーニャ(ガリシア語版)に招かれ、これを制し、帆船型のトロフィーを獲得。
リーグ戦は年間8位の成績。ナビスコカップでは、日本代表およびU-23日本代表によって複数の主力を欠く中[23]決勝進出。同カップで初めてベストメンバーを揃えて臨んだ[23]決勝戦では浦和を延長・PK戦の末に破り、初優勝を果たし、Jリーグ加盟後初の公式タイトルを獲得した。
以下編集中